日本ストリップの負の歴史
ところで、第1~3回までの文章を読んでいただいた読者の中には、「これは自分が知っているストリップと違う」という違和感を覚えた人もいることと思う。
じゃんけんに買った客が舞台の上でセックスする、本番まな板ショーがあったはずでは? 東南アジアや南米の女の子たちが売春していたはずでは? ステージを観て女の子を品定めし、個室で本番に持ち込めたはずでは?
そう、かつてストリップはもっと直接的に性を売っていたし、明確に「人身売買が行われる場所」でもあった。
日本におけるストリップの始まりは1947年、秦豊吉による「額縁ショー」がはじめとされている。この頃は今のようなダンスショーの形式を取っておらず、西洋の裸体画を模した姿の女性が局部を隠して立っているだけだったそうだ。
その後、娯楽の少ない時代においてストリップ劇場はその数を増やしていき、ピーク時には全国に600以上の劇場があったという。しかし、1970年代から性器の露出が始まり、同時にストリップのサービスはどんどん過激化していく。
かつては局部を見せるか見せないかのチラリズムを競っていたストリップだが、過激化のピーク時には鉗子での局部開帳、犬や馬との獣姦ショー、男女の本番セックス白黒ショー、じゃんけんで勝った客とストリッパーのセックスを見せる本番生板ショーなどが横行していく。
また、70年代には南米や東南アジアから観光ビザで出稼ぎに来ていた女性たちを、騙してストリップに引きずり込み、本番を強要させる例が相次いだ。彼女たちの多くは渡航時にブローカーに借金を背負わされ、売春を強要されながらの返済を余儀なくされる。「本番生板を拒否したために殺された女性がいる」という噂まであったという。
ストリップ関係者の自伝や評伝は少なくないが、いわゆる「本番」に関してはさらっと触れられるのみで、具体的な描写があまり残されていない。しかし、山谷哲夫の『じゃぱゆきさん』(情報センター出版局/1985年)には、この頃の「売春小屋としてのストリップ劇場」に関する描写がある。
山谷は、取材相手のフィリピン人・マリアの「本番生板」を目にする。「こけしショー」と呼ばれる性器にこけしを出し入れする日本人女性によるショーが終わった後、「さあ、さあ、お客さん。遠慮しないでどんどん舞台に上がって。早い者勝ちだよ。フィリピンからの産地直送だよ」というアナウンスがなされ、いかにも人のいいサラリーマン風の男性が舞台に上がり、「本番」を始める。
舞台に上がった男性とマリアの性交を周囲の40人ほどの客が視姦する様子は、極めて醜悪に描写されている。自分を取材しているライターを前にしながら、無表情に事をこなしていたというマリアの心境を想像すると、こちらも打ちのめされたような気持ちになる。
その後、1984年の風営法改正を受け、こうしたあからさまな売春を行う劇場は取り締まりを受け、減少の一途をたどる。
今、ストリップ劇場で「本番」を提供しているところは存在しない。
それでは、ストリップは“ホワイト”な娯楽なのだろうか? そう言い切れるほど、現状はシンプルではない。