カルチャー

グレーゾーンに未来はあるか 性風俗と芸能の境界線上で揺れるストリップ

【この記事のキーワード】

グレーだからこその自由と寛容

 それでは、ストリップは芸術的で上品な、どこから見ても“ホワイト”な芸能を目指すべきなのだろうか?

 ここが何とも言いようのないところで、ストリップは18歳未満禁止で、下世話で、あいまいで、“グレー”な存在で、だからこそ、市民社会や公権力といった“ホワイト”側が行う排除の姿勢と距離を置いているところがある。

  ストリップほどあらゆる人間がいる芸能はなかなか無いし、ストリップほど誰が訪れてもかまわない性風俗はない。

  劇場には、裸にしか興味がなくてダンスの時は寝ている人も、「来てくれてありがとう!」と言われたくて通っている人も、ストリッパーに心酔している人も、リズムがうまく取れなくて音に合わない拍手をしてしまう不器用な人もいる。

 いや、もともとエロに対する興味や、作品に感動する気持ち、誰かに慰めてほしい気持ちは、人の心の中で混じり合って存在している。

 そうしたグラデーションを一色に塗りつぶさず、あらゆる目的の人が共存できる混沌こそ、ストリップ劇場という空間を唯一無二にしているのではないだろうか。

 劇場では、性風俗に対する物差しも、芸能に対する物差しも、常に更新を迫られる。

 たとえば、初めてストリップを観た人は、よく「ストリップはエロというより芸術!」と口にする。そこに、鍛え上げた肉体や作りこんだショーに対する感動があるのはわかる。

 が、それは「エロのことを堂々と口にするには後ろめたい」と気持ちから発せられる、ある種の言い訳ではないか? そう発する心の中に「エロより芸術の方が上位の存在である」という偏見はないか?

 もちろん、性にまつわることは、本質的にはパーソナルな事柄だ。だから、それをむやみに共有したくないという感情は尊重されるべきである。

 一方で、「エロを消費しながらエロに関わる人々を見下す」という社会の矛盾が法や制度に反映され、性風俗従事者への偏見が強化されている現状で、何となく「ストリップはエロというより芸術」と口にしてしまったのなら、改めて自分のエロへの向き合い方を点検すべきではないか。

 ストリップを性風俗としてとらえるようとすると、そのストイックさや多様さに驚くし、芸能としてとらえようとすると、その猥雑さやいい加減さに圧倒される。

 そこには“ホワイト”な世界の価値観を揺さぶる混沌が潜んでいる。

 東京五輪の開かれる2020年、大阪万博の開かれる2025年を境に、ストリップはどんどん姿を変えていくだろう。ひょっとすると、10年後には今のストリップの形式は消滅しているかもしれない。

 ストリップという文化の面白さを体験し、心を揺さぶられたいと少しでも思うのなら、勇気を出して今、飛び込んでみてほしい。その先に何を見るのか、感じるかは、あなたの心次第だ。

(取材・文/池田録)

【第一回】現代ストリップは多彩なボディーパフォーマンスの場に 女性たちが憧れるストリップの多様性
【第二回】「ストリップ劇場は女子校みたい」「男の人も踊り子になりたい」劇場は多様なエロとの向き合い方を肯定する場所
【第三回】ストリップ劇場に女性客が増えている理由を探る~憧れと尊敬、客席の信頼関係

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